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3はじめに 古代吉き備びの国くには、大和に対抗し得た強国でした。吉備国は3世紀から7世紀にかけて、備前、美作、備中(現在の岡山県)と備後(現在の広島県東部)、そして瀬戸内海の一部を治めていました。 その吉備国は、大きな河川と稲作に適した肥沃な平野を有し、気候にも恵まれ、農業生産の適地であったという“王国”としての発展基盤を有していました。加えて、古今和歌集で吉備の枕まくら詞ことばとして用いられた「真金吹く」が、製鉄の際に飛び散る火花を象徴しているように、古代吉備国は鉄の一大生産地でもありました。 稲作による安定的な食料生産力と、森を拓き水田をつくり出す土木工事を可能にした製鉄という二つの大きな発展の原動力を吉備国は備えていたのです。この“古代吉備王国”の歴史と風土は、以後の日本の発展とともに、現在の岡山(以後「おかやま」と表記)にしっかりと引き継がれています。 そうしたおかやまを司馬遼太郎は、「吉備という語感がたまらなく好きである。上古岡山県は吉備国といった。兵はつよく、土地ははやくからひらかれ、その富強をもって大和に対抗していた。この点、岡山県は他県とちがい、し●に●せ●が古すぎるほど古い」と記しています(『歴史を紀行する』)。 おかやまは、戦後の高度成長期、水島の新産業都市としての発展などによって、農業県から工業県へ脱皮し、同時に、県民所得なども大きく伸長しました。 他方、多くの若者が農村から都市へ流出しましたが、おかやまは、今も吉備国の大いなる流れの中で、しっかりと“中四国一”の農業県としての地位を保っています。農家数も、農業産出額(愛媛県と常に競い合っていますが)も、農地面積も中四国一なのです。 時代は流れ、吉備国繁栄の時から千数百年を経て、21世紀も10年以上が過ぎ去りました。今日、わが国は通商国家として、優れた工業製品等の輸出と原材料、一次産品等の輸入によって成り立っていますが、他方、世界の人口増加と食料危機の中で、国民の生命の源である「食」まで海外に依存せざるを得ない状況に立ち至っています。

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