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16 稲作は製鉄とともに、地域の発展を支えてきました。そのルーツはこれまで植物相の豊富な中国雲南省ではないかと考えられてきましたが、約6500年前の水田耕作遺物が発見された揚子江(長江)の中・下流域が、稲作の起源とする考え方が強くなってきています。 そして、稲作が日本へ伝わったルートについても、 ①揚子江下流域の原産米が中国・山東半島を経て、朝鮮半島南部から九州  北部へ伝わったとする考え方 ②揚子江下流域から直接、九州北部へ伝わったとする考え方など諸説があります。 そして、九州北部に伝えられた稲作は、西日本に広がりましたが、他の地域よりも早く吉備国において農耕社会ができあがり、豊かな農業と先進性を背景に、吉備国は、大和に対抗し得る力を有することができたのです。 この吉備国成立と発展の経済的基盤は、何よりも岡山県南部が肥沃な沖積平野であったことがあげられます。津島遺跡、百間川遺跡などは、吉備地域での稲作の大規模性と先進性を如実に示しています。 特に、百間川遺跡群では、岡山市中区原尾島から兼基まで、直線距離約3キロにも及ぶ広大な水田跡が発掘されています。こうした大規模な水田開発には、木製の鍬くわなどとともに、鉄製の刃先をつけるものが現れ、これらによって飛躍的に耕地が拡大されていったと考えられています。ここにも製鉄の盛んだった吉備国の特徴がいかんなく発揮されたのです。吉備の米づくりは、こうして県南の沖積平野を中心に始まり、またたく間に県北の地まで及んでいったとされています。2 吉備国の農耕 ─吉備国発展の一大基盤吉備国の風景JA岡山西・本店前に立つ初代組合長守谷屹氏揮き亳ごうによる碑。農は国の「根幹」とも「基もとい」、「本もと」ともいわれ、「立国の基礎を農業におくべし」との趣旨。 倉敷市玉島八島 (H24.7.8)

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